天正遣欧少年使節とドラード



京都大学付属図書館蔵※展示されません

左上が、中浦(西海市)生まれの中浦ジュリアン、左下が、波佐見町生まれの原マルチノ、右上が宮崎生まれの伊東マンショ、右下が千々石(雲仙市)生まれの千々石ミゲル。彼らがキリシタン大名、大友氏・大村氏・有馬氏の名代としてアレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案し、ローマへ派遣された「天正遣欧少年使節」。1582年彼らは長崎港から南蛮船に乗り込み荒波を乗り越え、2年6ヵ月後ヨーロッパへ辿り着き、当時の教皇グレゴリウス13世や、スペイン国王フェリペ2世に謁見します。ヨーロッパに初めて訪れた日本人として、滞在時は現地の人々から熱烈な歓迎を受けたと言います。

天正遣欧少年使節の目的は、4人の少年たちにヨーロッパを見せキリスト教布教の為の語り部にすることと、イエズス会が育てた彼らをヨーロッパに紹介することで、布教活動をアピールすることになりローマ教皇やポルトガル国王の援助を得るためでした。それともうひとつが、キリスト教布教の為にかかせない教科書などを印刷する活版印刷機と技術の習得でした。

その活版印刷の技術の習得を、天正遣欧少年使節に従者として付いていった諫早生まれのコンスタンチノ・ドラード(日本名不明)が行ないます。ドラードは活版印刷の技術取得後、帰国途中にインドのゴアで『原マルチノの演説』、マカオで『日本使節見聞対話録』などの印刷を行ない、1590年、グーテンベルク式活版印刷機を持って帰国することになります。