(話し手)長崎市 文化観光部 出島復元整備室 学芸員 山口 美由紀さん
(聞き手)ナガサキリンネスタッフ 橋口 剛・佳代/HAG環境デザイン
「出島表門橋」の完成により、大きな節目を迎える出島エリアの復元整備事業。往時の姿を甦らせるために、これまで多くの人々が尽力してきました。出島復元整備室の学芸員として、出島の発掘調査にたずさわる山口美由紀さんもその一人。今回、ナガサキリンネの実行委員メンバーであり、長崎で設計事務所を営む「HAG環境デザイン」の橋口剛さん・佳代さんが聞き手となり、山口さんにお話をうかがいました。発掘とは、出島とは、守り伝える意味とは—。日々、足元に眠る歴史と対話する山口さんと、町家の再生や伝統工法を使った建築にも取り組む橋口夫妻が語ります。
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H HAG 橋口夫妻(以下・H) まず、発掘とはどのようなお仕事なのでしょうか?
学芸員 山口さん(以下・Y) 実は発掘は、市役所では土木工事の一つとして扱われていて、はじめに重機を使って地面を掘るといった作業そのものは、建設・土木関係の作業とあまり変わりません。ただ、私たちの対象は「遺跡」ということで、建物の基礎遺構や井戸、階段といった生活の痕跡、お茶碗のかけらなどの出土遺物を集め、“そこに何がどのようにあったのか”をきちんと調査していくという仕事になります。
それを、市の文化財課として行う場合は、史跡として整備・保存をし、より良く活用していくことが目的ですが、建築工事などに伴う通常の遺跡調査というのは、その後に何かを作ることが前提なので、調査後は壊してしまうんです。少し不思議で、“守りながら、壊す”といった側面があるというか…。大学では「遺跡の調査は、遺跡の破壊につながる。だからこそちゃんとしなければならない」と、まず教わりました。
H 確かに、ビルや道路を作ろうと基礎工事を始めたら、「あら、遺跡が出てきたばい!」なんてことがありますね(笑)。
Y はい(笑)。ただ、作る行為がないと、遺跡の調査はできないというのもポイントで。
H つまり、建設工事とか土木工事があってはじめて、調査ができるんですね?
Y そうですね。学術調査のような例外もありますが、基本的には“(調査後は)壊れる”ということが前提です。ただ「出島」の場合は「国指定史跡」ということで文化財保護法にのっとって、逆に調査をしたくても勝手に掘ることはできず、文化庁の許可が必要です。
H 今まで発掘をしてきた中で、一番興奮したものや、感動したものってありますか?
Y いろいろありますねぇ……どれが一番というのは難しいです。でも、江戸時代の出島の石橋の部材が出てきた時は、涙が出るくらい感動しました。「石橋の石はもう無い」と思って発掘に入ったのですが(註: 橋が架かる中島川は明治期に変流工事をしているため)、なんと石橋の石は、明治時代の階段や、昭和の時代の石垣などに転用されていたんです。出島の対岸の、いつも見ていたビルの下の石垣に使われていたので、なんてこった!と(笑)。
H それはつまり、石橋の石がリサイクルされていたということですか?
Y そうなんです! 全部見つかってはいませんが、建物の基礎石や壁石などに、ほぼ100%のリサイクル率で使用されたと思われます。
H 町家の改修などでも、建物は100年前のものだけど、使われている部材はもっと古いものを転用しているなんてことがあって、すごいな、と思うことがあります。今でこそ「リサイクル」という言葉があるけど、昔の人にとっては当たり前のことだったんでしょうね。
H 他の発掘調査と「出島」の発掘に、違いはありますか?
Y 発掘は遺跡を壊す行為でもありますし、無駄に掘るお金も時間もないので、建築工事などに伴う通常の遺跡調査では、その後に建てる物のために必要な工事範囲だけを、限られた期間で素早く発掘する、というのが基本です。でも出島の場合は、当時の建物を復元することが目的なので、逆に“わかるまではやめられない”。復元する上で正確な情報を得るためなら発掘範囲を拡幅することもありますし、発掘のスピードよりも、「なぜここを掘る必要があるのか?」という根拠付けや、成果を求められます。
H 発掘したものを解明するためには、当時の建築様式や暮らしを知ることも大切ですよね?
Y そうですね。古建築めぐりなどは、とても参考になります。束石や柱の立て方、砂利の敷き方、土と建物の境目がどうなっているかとか…上ではなく、下ばっかりみちゃって(笑)。出島で出てきた現象を理解できるものにめぐりあうと、すごく納得したりしますね。
H パズルのピースが合うようで、ワクワクしますね!
H 出島はオランダ人の前に、ポルトガル人が収容されていましたよね。その痕跡も出てきますか?
Y そこまでの深い調査は、上の時代の遺跡を守りながらでは難しくて。下の方まで掘ることができないので、その……ポルトガル人に会いたいんですけど、会えないんですよ〜っ!
H 会えないんですか(笑)! でも“会う”という気持ちが、時代と対話するようで素敵です。
Y 大学で学び始めた時に先生から、「知識よりも大切なのは、時代を超えてそこにいる人たちをどう見るか。人への目線や想像力が何よりも大事」と励ましてもらったことがあります。もちろん年代を特定するための知識は必要ですが、例えばワイングラスが出てきた時に、誰が使ったんだろう? 異国での日々を慰め合って飲んだのかな? なんて想像……“妄想”が広がるんですね(笑)。グラス一つにも、たくさんのストーリーがあると思うと楽しい。
H そこまで想像するんですね〜! 出島の出土遺物の特徴や、珍しいものなどはありますか?
Y 出島で発掘されるのは、輸出向けの華やかな磁器など。よその国から入ってきた物も面白く、イスラム陶器なども出ます。中近東にもオランダ商館があったからです。オランダに限らず、取引のあった世界中の物が出てくるんですね。また動物の骨も、食用や飼育用などたくさん出るのですが、専門家の方曰く、通常の国内の遺跡なら日本在来の動物で大体の見当がつくけれど、「ジャワマメジカ」とか(笑)、出島は予想もつかないような動物が出る! と。これも出島の特異性です。
出島で発掘をしていると塀が出てきたりして、「囲われた空間で生活していた、管理されていた」という面も見ることになります。一方で出土遺物は自由度が高く、世界各国の物が出てきたり、ここから海外へ輸出しようとする準備段階の物が出てきたりと、どこか羽ばたくような広がり、広範な世界がある。閉じ込められるものと、閉じ込められないもの、相反するものを感じます。このちっちゃな島を、長崎にとどまらない大きな視野で見たときに、出島の凄さがまた見えてきますね。
H 出島はずっと「復元」を行ってきたわけですが、新しい「出島表門橋」がなぜ現代的なデザインになったのか、純粋な疑問を感じていて……。
Y そもそも復元の目的は、ある時代—出島に関して言えば1820年代頃の往時の姿をみなさんに見ていただくことで出島の価値を伝え、文化財として後世に引き継いでいってもらうことにあります。表門橋ももちろん、昔の姿が望ましかったかもしれませんが、現在の川幅に合わせて橋を長くする必要があったり、水害の経験をふまえ安全面の考慮も必要だったりと、橋の実現にはいろんな配慮が必要でした。さらに橋の周囲に新たな遺跡も見つかり、「遺跡を守りつつ、橋も諦めない」と。そうしたたくさんの課題を乗り越え、完全な復元ではないけれど出島に調和するデザインで、「往時と同じく橋を渡り、出島に入る」という体験を実現させたことが、とても大きなことなんです。
H なるほど。
Y ちなみに建物の内装などになると、もっと世界が広がって、椅子ひとつ選ぶのもすごく難しいんです。当時のオランダで流行していたスタイルや、家具の格式、民俗的な資料などを参考にしつつ、それぞれの専門家がいろんなイマジネーションを働かせながら復元をしているんですよ。
H なるほど。完全にオリジナルを復元できているか考証できない部分もあるけれど、一生懸命、そこに近づけようとして、出島が現代に甦っているんですね。
Y 出島って歴史的な場ではあるんですけど、その都度その都度で見れば“最新”。18世紀の出島も19世紀の出島も、いつの時代も新しいんです。明治時代に近代的な河川工事をしたり、洋館や鉄橋などを時代に先駆けて造ったり。そういう、各時代の新しいものが累積して今の出島になっていると思うと、平成の今、新しい橋が架かるのもいいと思うんです。
H 100年後とか、もっと長いスパンで見れば、これも歴史になるんですね。
Y 常に革新的であろうとすることに、出島の気概を感じますよね。もっともっと先の世代になったとき、「平成の時代はこれです」なんて言えると、楽しいんだろうなって。
Y 最近、「出島」という言葉の持つ意味やイメージ、ニュアンスが、10年くらい前とは随分変わってきていると感じています。みなさんがいろんな想いで出島というキーワードを大切にされていて、普段「出島一丁目一番地」にいる身として、とても嬉しい。史跡や歴史としての出島だけではない広がりを持ち始めた気がします。
H それこそ復元が進んだことで、これまで関わりのなかった出島が、自分たちにつながり始めたんじゃないでしょうか? 形ができることで、あやふやだった歴史を実感できるし、出島の歴史がみんなの気持ちを後押しするようなもの、モチベーションを高めるものへと変わってきているように思います。
山口さんのお話を聴いていると、過去を見ているんだけど、同時に50年先100年先の未来も見ているような、不思議な気持ちになりますね。50年先100年先の人たちから見れば、ナガサキリンネの活動だって「この時代の人たちはこんなことを考え、暮らしていた」なんて、発掘されているかもしれない(笑)。
Y 面白いですよね。本当に、出島というキーワードがパワーアップしているというか、みなさんの口に「で・じ・ま」という言葉が上る機会が増えているというのは間違いなくて、中で働いている立場としてはすごく嬉しいことです。
H 最後に、みなさんへ伝えたいことはありますか?
Y 架橋のタイミングで出島の内部が刷新されるわけではないのですが、“橋を渡って入る”という新しい視点で何が見えてくるのか…体感できるものがあると思うので、橋の真ん中で川を眺めてみたりして、楽しんで渡ってほしいなぁと思います。また今回、橋に関する企画展を開催するにあたり、橋の周りで起きたことをいろいろと調べたところ、橋にも出勤ラッシュや退勤ラッシュがあったことがわかったんです(笑)。昔も今も、変わらないんですね〜。船の来港に合わせ、少ない時でも140人くらい、多い時だと450人くらいの往来があった。全長4.5メートルの橋を、ひしめき合って渡っていると思うと…妄想が広がりますよね(笑)。昔の人がどんな風に渡っていたかを想像すると、また面白いと思います。
写真提供・取材協力 : 長崎市 文化観光部 出島復元整備室
Tsunagaru Dejima (Re-Connecting Dejima): A Bridge to Discovery and the Future
An Interview with Miyuki Yamaguchi (Curator, Dejima Restoration Office, Cultural and Tourism Division, Nagasaki City)
Dejima is an artificial island just off Nagasaki Port, originally constructed to intern and manage the Portuguese population scattered around the city of Nagasaki. Trade between Japan and Portugal began in 1543, and their exchanges were friendly and vibrant in the early years. However, as Christianity spread more widely in Japan and the adherents to the religion among the barons and commoners gained more power, the situation changed entirely. The rulers at that time became afraid of Christianity and tried to prevent the propagation of the faith by detaining the Portuguese on Dejima.
Portuguese ships were subsequently banned from ever entering Japanese ports, and Japan implemented a policy of seclusion from the outside world from 1639 until 1854. The country terminated trade with foreign countries except China and Korea, as well as the Netherlands, which had completely separated trade from missionary activities so as to concentrate solely on commercial enterprises. During the period of isolation, Nagasaki Port was the only place in Japan where Western ships could enter. After the Portuguese were deported from Dejima, a Dutch trading house was established, and Dejima, as the only gateway to the West for 200 years until Japan reopened its ports, played an important role in the modernization of Japan.
Dejima today is managed and preserved as a designated site of historic significance. In order to restore the island to how it looked in the 1820s, an excavation project has been ongoing for a long period of time. Miyuki Yamaguchi is a curator at the Dejima Restoration Office and involved in the excavation efforts.
“From the small artificial island of Dejima,” she says, “a wide range of foreign goods spread all over Japan. Conversely, Japanese goods were exported from this island. During the excavation, we have discovered examples of elegant Japanese ceramics that were exported to Europe as well as ceramics from the Middle East where the Netherlands was doing trade, and the bones of animals from around the world that were kept for food and rearing. On a purely historical basis, Dejima was where the Portuguese and the Dutch were forced to live, but the relics we have found here suggest how expansive and rich the connection to the world was.”
In 2017, Dejima Omotemon Bridge was finally completed, restoring the landscape closer to how it was in past. “By crossing the bridge to enter Dejima,” Yamaguchi says, “just as people did in the past, I am curious to know how we will feel. I want people to enjoy crossing the bridge while imagining the people who walked along the same route so many years ago.”