北窯のこと
映画「あめつちの日々」 によせて




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沖縄の人は自らをウチナンチュと呼ぶ。沖縄県人とはあまり言わない。県外の人はヤマトンチウである。ヤマトと呼ばれると薩摩の侵攻、悲惨な大戦、そして安保下の基地のことなど日琉の歴史の重さに悲しくなるが、わたしの知るウチナンは、そんなわだかまりなど微塵もみせない。

この春、松田米司さんの長女・唯子さんの結婚式に呼ばれた。教会での挙式、植物園の大テントでの披露宴、新郎はなんとひげ面の米国青年である。物理学者らしい。式には米国からご両親と美人の姉、長身の弟も来日。松田家の弟妹とアメリカの弟妹は四人組をつくり、振袖・紋付の正装で琉球舞踊・祝歌「かぎやで風」を見事に舞ってみせた。最後はカチャーシー(沖縄の手踊り)になり、ウチナンもアメリカもヤマトも渾然と踊りの渦と化した。これが沖縄なのだ。ウチナンもヤマトも無く、「好きか嫌いか」。好きと思えば兄弟なのである。熱くストレート。こんな沖縄にどんなに救われたことだろう。

沖縄との付き合いは 30年余になる。当時首里で窯をたいていた大嶺実清氏を訪ね、たちまちヤチムンのとりこになった。大嶺さんは読谷村に共同の大窯を築いてヤチムンの里を作るという壮大な夢を実現していた。私の心は焼物の仕入れから、次第に陶工の仕事そのものに傾いていった。大嶺さんは短期入門を許してくれた。嬉しかった。そこでは既にベテランの職人の松田米司、共司の兄弟が働いていた。ある日、職人さんたちとのお茶の時間に大変な話になった。職人さんたち四人で新たに共同窯を作って独立しようと云うのだ。彼らは既に古民家の赤瓦や電柱など集め蓄えていた。窯作りのノウハウは20年の経験で知り尽くしている。しかし金の無いのは致命的である。彼らは施主でありながら大工に雇ってもらうと云う不思議な方法でやりくりし、ついに赤瓦葺き工房と十三連房登り窯の読谷北窯は完成した。

共同と云っても個性の強い男ばかり、仲良くなければ共同体は崩壊するだろう。成功のカギは人間関係にあったと思う。彼らは沖縄の伝統であるユイマール(助け合い)をモットーに共同作業で土を作り、3時のお茶タイムには全員で集まりユンタクを大切に守った。平成5年の初窯から 24年。年に5回の窯たきを休んだことはない。島内の材料を集め伝統の技法を守り、ヤチムンを作り続けた。奇をてらうこともない、日常の食器である。ウチナンの血、DNAの仕事と云っていい。その自然でいきいきとした器が次第に評価され、都会の人々の心を捉えた。

ところで私も北窯との縁で米司工房の一員に加えてもらった。北窯の想い出は多すぎてここでは書けない。悲しいこともあった。長崎から若い娘さんが弟子入りしてきた。よく働きみんなに好かれていた。中川さびな、リンネの橋口佳代さんの親友である。佳代さんも米司工房にやって来た。さびなが3年後に発病しついに帰らぬ人になったことは深い悲しみを残した。

今回、長崎での上映会を楽しみにしていた米司さんが病気になり来崎できなくなった。米司親方の回復の早いことを祈るばかりである。

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長崎民芸協会 庄司 宣夫(工芸けやき)

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