ひとくちに想う、功の多少、彼の来処。



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曹洞宗の開祖・道元による、「典座教訓・赴粥飯法」という教えをご存知でしょうか。「典座」とは、禅の修行道場において“食”を司る役目のこと。その典座の仕事の大切さや、食事をいただく際の心得を説いたものが、「典座教訓・赴粥飯法」です。教えの中で道元は、食事の前に必ず「功の多少を計り、彼の来処を量りなさい」と説きます。「目の前に置かれた食事ができあがってくるまでの手数がいかに多いかを考え、それぞれの材料がここまできた経路を考えてみよう」という意味です。
衣・食・住。自分の暮らしをとりまくあらゆるものが、誰の手によってどのように作られ、どんな道筋をたどって私の元へやってきたのか……そこに“実感のともなう”暮らしがしたいと願うようになって、数年が経ちます。おのずと関心は農業・漁業をなりわいとする生産者さんや、土地土地の郷土料理へと向かい、長崎各地の山へ海へ足を運んできました。
「百聞は一見に如かず」とはよく言ったもので、自らの口に入り、私のからだを作る“食”の現場を訪ねることは、みずみずしい発見の連続です。私は人参やネギやジャガイモがどんな花を咲かせるか初めて知り、オクラや落花生の成り方に驚きました。一年の、たった一度の収穫のために、どれだけの下準備や労力があるかを学び、その途方もない手間と時間に気が遠くなったこともしばしばです。畑で、海で。目の当たりにしたのは、まさに「功の多少、彼の来処」でした。

今日、食すものの向こうに、こんな風景がある。営みがある。自然、人、文化、歴史。つらなり、つみかさなるものを想う

今日、食すものの向こうに、こんな風景がある。営みがある。自然、人、文化、歴史。つらなり、つみかさなるものを想う

土地の味が教えてくれること

先日、私は西海で「ぼうふらずうし」という郷土料理をいただく機会に恵まれました。はたしてどんな料理なのか、名前からは検討もつきませんでしたが、西海の方言で「ぼうふら」はカボチャ、「ずうし」は柔らかいごはんを意味するということで、その正体は潰したカボチャとごはんを和えた田舎料理でした。ひと味違うのは、なんと「鯨」が入っていること!西海周辺はその昔、捕鯨で栄えた土地。「肉よりも鯨が手に入りやすい」と、たとえば「肉じゃが」のような料理にさえ、鯨を使ったというのです。
こうした郷土の味の面白さは言うまでもなく、その土地固有の風土や歴史、そして人々の知恵や工夫が閉じ込められていることにあります。その土地でとれるもの・作れるものをどう生かし、味わうのか。貴重な食料を少しも無駄にせず、できるだけ長く保存するにはどうしたらいいのか。現代のように飽食ではなかった時代、「功の多少、彼の来処」に想いをはせ、目の前の食に綿々と連なる“いのち”を見ることは、ごく自然の心の動きだったのかもしれません。
食の生まれる“農”や“漁”の風景が、わざわざ足を運ばねば見えない遠いものとなって、どれくらい経つのでしょう。ねっとりとカボチャが絡むことで、少ないお米でも食べ応えのある「ぼうふらずうし」に感心しながら。このひとくちを生み出した土地の自然や人々の存在を、つね、忘れることなく感じられる心でありたいと思ったのです。

西海の郷土料理「ぼうふらずうし」。暮らす土地の食文化は、いきいきと、おもしろい!

西海の郷土料理「ぼうふらずうし」。暮らす土地の食文化は、いきいきと、おもしろい!

ナガサキリンネ はしもとゆうき