そんな職人がいたことを私が知ったのは、つい最近のことでした。現在、長崎空港が所在している箕島は、空港が建設される直前まで、主に農業を営む 13軒の家族が暮らす島でした。私の母の実家はちょうど島の真ん中に建っていて、母は大村湾に浮かぶその島で最後の花嫁だったと聞いています。ですから、その母が島に里帰りして産まれた私は、島で最後の子供だと自称して、すこしだけ自慢もしています。
母から聞く島の生活は、私にとってめずらしい話の数々でした。母の実家は農家であったことから、調味料のほとんどは自分たちで作っていました。米や大豆、サトウキビなどを育て、味噌、しょう油、黒砂糖、どぶろくのようなお酒など、あらゆる物が自家製でした。目の前には海があり、魚介類には事欠きません。ニワトリはもちろん、羊も飼っていて、年に一度刈り取った羊の毛は、「今年はおじいさんの背広を作ってもらおう」「来年は子どもたちのセーターを」と、毎年目的を決めてテーラーに出していたそうです。
そんな島に、定期的に渡って来ていたのが竹職人でした。職人は数日間島に滞在しながら家々の用を聞き、その注文品を島にある竹を加工して作ります。当時は、籠や笊、笽、ホゲ、その他生活にまつわる道具の多くが竹製品だったので、注文の種類はいくつもあったことでしょう。母の実家は、みかんなどの果樹と、大根や瓜を漬け物に加工する農業を生業にしていたため、家には大きな漬け物用の樽がいくつもありましたが、その樽の壁を構成する木々の胴を締め上げる太い竹ヒゴの補修も、竹職人に依頼する仕事のひとつでした。
私がこうした竹職人の話を聞くきっかけとなったのは、島から移転した後の母の実家にある、見事な蓋付きの湯呑カゴを見たことからでした。その細く繊細な竹ヒゴによって多彩な模様で編み上げられたカゴは、しっとりとした色合いに落ち着き、祖父母の家で今も現役です。同じく、荒々しい日常の道具として使用された竹製品は、日々の暮しの中で摩耗し、壊れてかけているものもありますが、その多くがいまだ使われています。これらを作った職人は、今どこにいるのでしょう。
アジアという地域を意識する素材として、まずはじめに「竹」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。わたしたちが住む日本国内にも、たくさんの種類の竹が自生しています。みなさんは、身の回りにあるプラスチックや段ボール、金属などで作られたほとんどの日用品が竹製品だった世界を想像したことがありますか?そんな時代が確かにここ長崎にもありました。それも今からたった4、50年程前まで。しかし現代の生活の中では、それを作っている職人や材料のことを知る機会がほとんどありません。
わたしたちは、そんな竹の事を知りたくて、「あの場所で見かけた」「そんな人がいる話しを聞いた」「竹の展示会を見に行ったことがある」…と、友人知人の言葉、そして今はありがたいネットでの検索エンジンを頼りに、佐世保、川棚、琴海、大波止など県内の作り手や売り手を訪ねることからはじめました。第4回ナガサキリンネでは、こうして集めた竹の入口のようなお話を、別府在住の竹工芸家・西本 有さんの仕事とともにお伝えします。
ナガサキリンネ 中原真希