「あめつちの日々」上映会に寄せて
〜暮らしを潤すうつわ(やちむん)、その先にある物語。



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初めて沖縄を訪れてから23年が経つ。北窯が開窯してから2年目のこと、友人が陶工になるため北窯に修行へ行ったので、一週間の休みを取り向かった。那覇から読谷への58号線の道路沿いには、店先にバナナがぶら下がり、おばあが椅子に座っている小店がまだ何軒か残っていた。日本と言うより、アジア。他の国に来たような感覚でもあり、懐かしい感じでもあった。
そうしながら横道に入り、うっそうと草の茂った細い道を車で通り抜け、「ハブに注意」と書かれた看板を横目に見ながらでこぼこ道をガタゴトと着いた北窯は、青い空に赤瓦が美しい工房だった。

親方と言うと堅物オヤジのようなイメージだけど、米司親方は若くエネルギッシュでとてもフレンドリーな感じ。見ず知らずの私に対して、島訛りのイントネーションでユーモアを交えながら一言一言丁寧に話をしてくれて、ここにいてもいいという安心感と心地良さを与えてくれた。友人が仕事の続きをするため、親方は私のために仕事を用意してくれた。実はそのために事前に場所を用意し、型を用意していてくれた事はもっと後から知った。型とは型物を作る石膏の型の事で、これを作るのは結構な労力がいる。

工房の中ではFMのラジオが流れる中、黙々と作業。外では土を作ったり、薪を用意したり体を使っての共同作業。北窯は共同窯で4人の親方がいて、それぞれに全国各地から若者が陶工を目指し修行に来ている。10時と3時には4つの工房が集まりみんなでお茶の時間を必ず取る。晴れても雨が降ってもそんな毎日。
伝統という大きな時間軸の中にいながら、大地に根をつけ、日々を生きている。

夕方6時になると仕事が一段落し、工房の片隅にある囲炉裏に集まり団欒のひとときとなる。

昔は那覇の壺屋で修行をしていた。壺屋が住宅地となってきたため登り窯で焼けなくなり、登り窯にこだわる米司親方の親方たちが読谷村へと移り住んできたこと。親方たちは自分たちの窯を作るために赤瓦を集めた。資金はないが夢があると、4人の共同窯を立上げるべく北窯の壮大な企画書を読谷村の村長に提出したことなどを、面白可笑しく、双子の共司親方と一緒に沢山の話しを聞かせてくれた。

学校では決して教えてくれない「生きる力」を感じた。

私は初めて北窯へ行き、一緒に作業をした夜、工房の隅でなぜか涙がポロポロ出た事を今でも鮮明に覚えている。それは自分の意思ではなく、奥から込み上げてくるものだった。

これまで何度となく北窯に通い、時には数ヶ月お世話になったこともある。親方と出会い、北窯と出会い、そこに暮らす人々と出会い、友人とのやり取りの中で、それまで地図を持たなかった私は、地図と方位磁針を渡され、宝のある方向を示されたような気がする。その道のりは決して平坦ではないかもしれないけれど、健やかで「生きる」喜びがある。自然にしたがえば、自然の愛をうける。

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現在、北窯へと行く道路は綺麗に整備されて、大きいビルも出来ている。だけど、北窯はあの時と変わらずそこに佇んでいる。親方達も「今が伝統となる」と変わらず果敢にチャレンジを続けている。

友人は3年の修行の後、志し半ばで発病し7年の闘病生活の後、天国へと旅だった。
みんなで最後の時を見送った。「私たちはこれからだよ、ひきつないでいかなくっちゃ」と修行時代に手紙をもらった事がある。何度もこの言葉に励まされた。天国にも友達がいるということは何とも心強い。バトンを渡されているようであり、一緒に歩んでいるようでもある。

大切な決断をする時には親方に相談をした。親方は必ず うんうんと頷いて「いいんじゃない」と後押しをしてくれる。その言葉には結果的に良い方向にいっても、思わぬ方向にいっても応援してくれる包容力がある。

悩みの相談をすると、腰に手をあて「親方の出番かな〜」と言ってくれる。そう言われると「もう少し頑張ってみよう」と思えた。

私は初めて訪れたあの日からずっと親方の背中を見ながら歩んできたように思う。
親方のあのときの年齢をもうとっくに超したのに、まだ追いつけないでいる気がする。

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この映画を撮影された川瀬監督は、北窯や親方の日常や空気感をとても大切に撮影されていて、見た後にもじわじわと沁みてくる。暮らしを潤す器(やちむん)、そのさきにある物語。
ものづくりを生業とする人も、そうでない人も、本質的な価値を見つめる機械となる映画です。
是非、沢山の方に見てほしいと思います。

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ナガサキリンネ 橋口佳代

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